Director's Room

 

  ミューゼシードは2021年に31年目を迎えました。かつて参加してくれた多くの音楽家たちが、日本で、海外で活躍し、また現在出演している人たちも進境著しく活動を続けています。逆境ともいえるような状況に遭遇することもありますが、これまでどおり活動を続けていけることを望みます。

 

 1990年に若手音楽家のネットワーク〈ミューゼシード〉を結成、多くのコンサートをプロデュースしてきた。
 指揮者としては、ミューゼシード・チェンバー・オーケストラ、アンサンブル・セシード、アルジャン・サロン・オーケストラなど指揮して、室内楽版のマーラー「大地の歌」ほか多くの作品を、またオペラでは「ラ・ボエーム」「カヴァレリア・ルスティカーナ」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」「ドン・パスクァーレ」「椿姫」などを指揮した。
 ほかに音楽文化アドヴァイザー、クラシック音楽番組のラジオ・パーソナリティなどにくわえて、フェンディのファッションショー(オーケストラ付き)の音楽監督もつとめた。
〈ミューゼシード〉音楽監督、〈コンセール・ヴィヴァン〉代表。
〈パルフェ・クラシックス〉ディレクター。
 早稲田大学政治経済学部卒業。

1997年

 
 「作曲家と女性たち」「ウィーン世紀末の様相」「音楽とは?クラシックって?」…。ユニークなテーマとともに、若手演奏家たちが出演するコンサート・シリーズを続けている〈ミューゼシード〉。その音楽監督である飛鷹佑依さんにいくつかの質問を行った。
─まずミューゼシードを始めた理由についてですが。
飛鷹 大きな理由として2つのことがありました。1つは演奏家側のことですが、若い音楽家たちにコンクールやオーディションなどとは違うところで、一般の聴衆の前で演奏する機会を作ってあげたいということでした。若い音楽家たちをみていると自分の練習やレッスンのほか、発表会というものがありますが、聴いているのは親類縁者と同業者です。またコンクールやオーディションにおいてもそれを聴くのは少数の専門家であって、一般の聴衆ではありません。こうしてみてみると一般の聴衆の前で演奏する機会が極端に少ないということでした。
 そしてもう1つは聴衆の側のことですが、クラシック音楽をもっと気楽に楽しんでもらいたい、ということがありました。つまりこの両者をつなぐ存在を目指したのです。始めてからもう8年になりますが、やっているうちにいろんなこともわかってきました。
─それはどんなことでしょう?
飛鷹 まず上手な演奏、ミスのない演奏というのと聴衆に訴える演奏というのは違うということです。またいい演奏であれば、よく知られた作品や聴きやすい作品でなくとも聴衆に素直に受け入れられる、などということです。
─先ほどコンクールの話がでましたが、それに関してはどう考えていますか?
飛鷹 コンクールそのものを否定するものではありません。確かにコンクールに入賞するというのは若い音楽家が世に出るのにてっとり早い方法ですし、参加するだけでも勉強になるところもあると思いますが、審査するのは少数の専門家ですし、どうしてもミスをしない、いわゆる減点法の採点になってしまうと思うんです。ですから若い人達がみんなコンクールを目指してそういう演奏するようになるというのはまずいんじゃないかと思うんです。演奏家というのは最終的にはいかにミスをしないか、いかに専門家から評価されるかではなくて、聴衆に愛される演奏家かどうかが問題なわけで…。コンクールに入賞してもそのあと聴衆に受け入れられなければしょうがないでしょうし、したがって演奏家は若いうちから一般の聴衆の前で演奏して、そこで生きた音楽を創っていくということが必要だと思います。実際いい演奏をする人のなかでもコンクール向きの人間とそうでない人間もいますし、あまりこれだけにこだわるのもどうかと思います。
─ミューゼシードの音楽監督の役割は?
飛鷹 音楽監督は、そのコンサートや団体の音楽的成果についてすべて責任を負います。ミューゼシードでは多くの場合、コンサートにテーマがありますので、そのテーマとだいたいの曲目を想定して、出演者を決めていきます。これはサッカーの監督などと同じで、普段のプレイヤーの様子を見ながら、「いつ、誰を、どのポジションで出てもらうか」を決定していきます。
─コンサートにはテーマがついていますが。
飛鷹 これはネーム・ヴァリューのない演奏家たちのコンサートにいかに来て楽しんでもらうかということを考えたうえで、でてきたことです。テーマは、レパートリーのようなものがいくつかストックしてあるのと、あとは演奏家たちのレパートリーや意見なんかも聞きながら作る場合もあります。大事なのはあるテーマのもとで曲を集めて終り、というのではなく、そのテーマを通して伝えたいことは何か、そしてそれをうまく伝えるにはどうしたらいいか、ということです。このことによってプログラムにも一貫性がでて、解説を交えることによって聴衆にもわかりやすくなり、また演奏するほうも、テーマを意識したうえでまた自分の演奏する曲にそれを生かすことができると考えました。
─このテーマをもったスタイルは当初からでしたか?
飛鷹 最初からそうでした。しかし突然できたのではなくて、大きなお手本がありました。バーンスタインが昔やっていた「ヤング・ピープルズ・コンサート」や「オムニバス」という彼のテレビ用のプログラムがそうです。もちろんその企画力においても、また解説における説得力においても遠くおよびませんが。
─新しい聴衆を増やしていくのは大変なことだと思いますが。
飛鷹 確かにそうです。実際、新しい聴衆を創るというのは愛好家を取り合うよりはるかに難しいことです。ある意味で今のクラシック音楽界というのは新しい聴衆にたいして割と冷たいと思うんです。よく聞く話なんですが、音楽愛好家じゃない人がコンサートのチラシを見てもどれに行ったらいいかわからない、またCD買いに行っても何買ったらいいかわからなくて売り場で立ちつくしてるって。これはクラシック音楽をやっている人達が、「素人さんにはわからなくていい」という態度で歩み寄ろうとしないのか、あるいはアプローチの仕方がわからなくて歩み寄ることができないのか、わかりませんが、まだまだ努力が足りないのでしょう。コンサートに関してもよく初心者向けのコンサートというのはつまらないのが多いと思います。
─具体的には?
飛鷹 いわゆる「素人さん向け」コンサートです。相手は素人さんだからこんなもんでいいというような。でもそれは大きな間違いだと思うんです。以前きいたんですが、こういったコンサートはヨーロッパなんかにはあんまりないそうなんですね。青少年のためのコンサートなんていっても、大人と同じものを聴かせる。むかしのベルリン・フィルのパンフレットにもありましたが、青少年のためのコンサートでカラヤン/ベルリン・フィルが定期と同じマーラーの第9番をやっているのです。またバーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」も大人が見ても楽しいものをやっています。
─若手育成についてのお考えは?
飛鷹 今日本において、大学などをのぞいて、本当の意味で若手育成をシステムをもって団体や組織なんてほとんどないんではないでしょうか?もちろんミューゼシードにもそんなことはできているとは思いません。確かに若手演奏家を出演させているコンサートも多くありますが、この中には「若手育成」を謳いながら多くのチケット・ノルマを課して演奏の場を欲しがっている若手演奏家を相手に商売しているような音楽事務所もあり、非常に残念です。こんなコンサートは演奏する側にも観客の側にもほとんどためにならないものです。また発表会的なコンサートをやるだけではとても若手育成なんて言えません。
─日本の音楽教育についてはどう考えますか?
飛鷹 技術的にみたら海外のコンクールをみても、また同世代の音楽家をくらべてみても、日本は非常に高いものがあると思います。しかしこれも海外でよくいわれるように中味がな
いということ。これ最近みてて思ったのですが、例えばピアノを小さいころから初めて最初はバイエルなんかの「教材」で習っていてその後ツェルニーなんかをやって、それがいつしかモーツァルトやベートーヴェンの初期のソナタといった「作品」を弾くようなるわけです。しかし習っているほうも、ときには教えてるほうもその「作品」を「教材」として使っている場合があるのです。これはクラシック音楽を専門に勉強しているはずの音大でもよくあることで、ショパンやラヴェルにも「教材」として接していて、先生もそうしているのです。こんな場合、生徒はもちろん、先生も音楽史の知識が恐ろしく欠如しています。そしてこんな先生が結構いるのに驚かされます。よく日本の音楽家の演奏が中味がないといわれますが、最初から中味を考えていないところでショパンなんかが演奏されているといことが多々あるようです。
─今度はオペラについてお聞きしたいのですが。
飛鷹 話を始めると誌面が足りなくなると思いますのが、日本のオペラ愛好家、あるいは
オペラの送り手のなかにあるオペラの概念というのはあまりに〈グランド〉なものだと思い
ます。オペラといえばつねにメットやウィーン、コヴェントガーデンといったところを連想し、豪華じゃないとオペラじゃないといった雰囲気があります。そしてこのことが若手の歌手が立つべき小さい劇場が日本にできない理由のひとつになっていると思います。
─今後に関しては?
飛鷹 今後もこれまでと同じようにコンサート・シリーズを続けていきます。またこれからはコンクール入賞者のなかだけからではなく、聴衆のなかからアーティストが出てくるようになるといいと思います

(「音楽現代」'97年2月号に掲載)

1999年

「作曲家と女性たち」「ウィーン世紀末の様相」「音楽とは?クラシックって?」といったテーマを設定したユニークなコンサート活動で以前から注目を集めていた若手演奏家集団〈ミューゼシード〉。最近までサントリー小ホールで4年間にわたってのコンサートを行ってきたが、98年10月より銀座の王子ホールで3年間に全10回におよぶ「世紀末、そして」という興味深いシリーズをスタートさせた。その音楽監督、飛鷹佑依に話を聞いた。
─さて最初にミューゼシードのことについていろいろお聞きしたいのですがですが。若手を起用してきたこれまでのシリーズでも、多角的なテーマでコンサートを企画されていましたが…。
飛鷹 98年の10月で8年目になります。小さいところから始めて、ここ数年はサントリー小ホールや安田生命ホールでシリーズをやってきました。今は80人ぐらいの演奏家が
います。コンサートでは、一貫性をもったコンサートにするために毎回テーマを設定して、それにそって、解説というかおしゃべりを演奏の合間にはさみながらやっています。単なるそのテーマにしたがった曲集になってもしかたがないと思っていますが。
 演奏家の起用に関しては、これはサッカーなんかの監督と同じようなものですけど、みんなの状態をできるだけ把握した上で「誰を、いつ、どのポジションで使うのがベストか」を考えて決めていきます。その決定権をもっていて、これについては全責任を負います。つまり結果がでなければ監督の責任です。また新しい人がいれば、まず聴きます。その人にどんな肩書きがあっても、先入観なしで聴いて判断します。そしてよければ、出演してもらって、それをまた聴いて、見て、また次を考えます。本番で使ってみなければわからない、というのもこれもサッカーなどと同じでしょう。ですから新人も含めて、演奏を聴く機会も自然と多くなります。
─音楽界で活躍する演奏家もでてきました。ある意味では、若手育成の役割も果たされていたわけですね。
飛鷹 そうですね。すでにCDデビューしているピアノの竹村浄子さん、国内外のオペラなどで活躍するソプラノの森麻季さん、林正子さん、バリトンの成田眞くん、そして多くの管や弦の奏者がすでにプロとしてオケなどに入っています。ただ僕らは演奏家を有名にするためにやっているわけではありません。彼らはみんな当初からすばらしかったですし、その後も真摯な態度で音楽に接してきて、演奏家として大きくなっていきました。活躍して当然だと思っています。
─さてこの秋から始まった新しいコンサートシリーズのことについてお伺いします。まずホールが変わりましたね。王子ホールに移られた理由というのは?
飛鷹 特別にサントリーホールに不満があったわけではありませんが、同じ状況で続けていると、どうしてもマンネリというものに陥りやすくなります。やはりどんなときでも私たちのような団体には新たな刺激が必要なのです。そんなことを考えていたときに王子ホールからもおさそいがあって、それでどうせやるのなら今までとはちがって、1つの大きなテーマをもったシリーズを考えてみました。
─それでシリーズ全体に「世紀末、そして」というタイトルがついたわけですね。「世紀末」に注目したのは? また「そして…」の部分も重要だと思えるのですが。世紀末というのはさまざまな概念の崩壊と創造とが共生しているおもしろい時期ですよね。
飛鷹 もちろん今が20世紀末だったというのが多きな前提でしたが、やはり「世紀末」には独特の雰囲気があって…。社会情勢の変化からくる不安、終末思想、退廃、といったような。そしてそれと同時に新しい時代へのエネルギーをも感じさせます。そしてそれが音楽にも反映されています。その辺りが興味をひかれるところで。タイトルについては時期的に世紀末だけでなく、次世紀の初頭まで含んでいるので「世紀の境界線」の音楽という意味で「世紀末、そして」としました。また次の世代に踏み込んだ作品も取り上げたい、という意味も込もっているんですが。意外にタイトルはすんなりとは決まりませんでした。
─今回の企画では、19世紀末から今世紀初頭だけではなく、さまざまな境界に焦点を当てていますね。それぞれの世紀末。独自性もうかびあがってきそうですね。
飛鷹 そうです。このシリーズでは過去における3つの世紀の境界線を焦点として、特に17世紀から18世紀ではJ.S.バッハ、18世紀から19世紀ではベートーヴェン、19世紀から20世紀へではマーラーとドビュッシーといった作曲家を軸に、プログラムを展開していきます。彼らはいずれも世紀をまたいで生き、その世紀の財産を充分に受け継ぎながら革新的な面を打ち出して、次の世代への橋渡しをした作曲家たちとして特に重要だと思ったからです。
─飛鷹さんの指揮する〈アンサンブル・セシード〉がこのシリーズでは多く登場するようですが? これまでもおもしろい編曲版などを取りあげてこられましたね。
飛鷹 このシリーズをすすめていくうえでそのイメージのよりどころとしているのが、19世紀末のウィーンで行われていた《ウィーン私的演奏協会》の演奏会です。この演奏会はご存じのとおり、シェーンベルクを中心にベルク、ウェーベルンらも出演していたもので、当時の現代音楽を始め、マーラーの交響曲のピアノ編曲版やウィンナ・ワルツなどの室内楽・編曲版などもそこで演奏されていました。私たちのシリーズでは、実際にこれらの演奏会で演奏された曲のほか、そのスタイルを参考にして、小編成のアンサンブルでの編曲版なども積極的に取りあげていていきます。ここで登場するのが、ミューゼシードのなかで結成されたこの〈アンサンブル・セシード〉で、非常にシンプルな編成ですが、このアンサンブルがあることでプログラムの可能性は広がります。
─このシリーズをとおしてミューゼシードの有望な若手の演奏を聴けるのは楽しみです。
飛鷹 とにかくこういった舞台での若い演奏家たちの演奏をぜひ聴いてみてほしいと思います。一部のコンクールの本選だけをのぞいて最近の若手演奏家をすべて理解したように考えている人が専門家のなかにも多いのは残念です。あとはコンサートから世紀末の雰囲気を感じていただければうれしいですね。
─ミューゼシード全体の今後の展望をお聞かせください。
飛鷹 有名人を出そうとか、ミューゼシード自体を知られるものにしようとか、そういった野心のようなものはありません。これからもひとつひとつコンサートを続けていくだけです。少しでもいいものを、また少しでも若い演奏家にとっていろいろな意味で条件をよくしていきたいとは思いますが。
 

(「音楽現代」'99年1月号に掲載)